2016年7月現在、「灯台もと暮らし」編集部のひとりである私は24歳で独身、子どももいません。
準備はまだ整っていませんが、私にはずいぶん前から、心に決めていることがあります。それは「子どもをたすきがけして働く」ということ。
東京で暮らし、既婚の知人友人が増えてきた私にとっては、子育てしながら働きたい女性は、とても多いように感じます。けれど同時に、子どもを理由にやりたいことや仕事を諦めなければならない、悔しい声も聞こえてくるのです。
子どもを授かることは、本来喜ばしいことのはずなのに、どうして窮屈な、歯がゆい思いをしなければならないのだろう。子どもをたすきがけしながら働くのは、本当に難しいことなのか?
未婚で出産の経験もない私にとっては、とりとめもない夢を追いかけるような話だけれど、風の噂でも、一般論でもなく、子育てをしながら働くお母さんが、いま何を考えているのか知りたい。その先に、いざ自分が母親になったときに進んでいけるヒントが、あるような気がしたのです。
家計のためだけではなく、意思を持って仕事をしているお母さんたちに、どうすれば「子どもをたすきがけしながら働けるのか」、生の声をうかがいます。
第一回目にお話をうかがう藤岡聡子さんは、私が学生時代に出会った女性のなかでも特に印象深く、今回のテーマを設定してまっさきに話をうかがいたいと思った女性のひとりでした。
「“きもったま母ちゃん”みたいな性格だから、きもさんと呼ばれていました」という自己紹介を聞いた日から2年弱が経ち、ますます“きもったま母ちゃん”になったきもさんに、会いに行きました。
お年寄りと子どもが集う、地域にひらいた場所をつくりたい
── 私、藤岡さんと呼ぶのはすこし照れくさいので、取材中も、きもさんと呼んでもいいでしょうか。
藤岡 聡子(以下、聡子) はい、ええよ(笑)。
── いま、きもさんは起業されて「ReDo」(リドゥ)という法人の代表取締役なのですよね。どういうことをやっていらっしゃるのか、改めて教えていただけますか。
聡子 「ReDo」は福祉の再構築をすることをミッションに掲げている会社です。今は来年のオープンを目指して、商店街の中の空き店舗をリノベーションした、介護施設の準備中。そのための地域のコミュニティづくり、調査、執筆、講演などを行なっています。
── 商店街というのは、どのエリアになるのでしょうか。
聡子 東京都の豊島区です。豊島区は、子どもを産む女性の数が減っていて、消滅可能性都市だと言われています。そこへ、危機感を覚えた建築家のひとやデザイナーさんたちが入り始めているんですね。生まれ育ったひとたちにも変化が出てきていて。同時に、豊島区は私の家から近くて、子育てしながら働きたいと思っている仲間も集まる地域だったから、豊島区発なら何かできるかもって思って。
── 建築予定の介護施設は、どんな場をイメージされていますか。
聡子 子どもとお年寄りと、地域に開かれた場所です。この構想は、5年以上前から持っていたもので、30代に入ってようやく実現に向けて動き始められた感じですね。
聡子 新卒入社したのは人材教育の会社で、今でも当時働いていた仲間は大好きなんやけど、私は一生「教育」をしたいわけじゃなかった。「生きてきてよかった。よし、今から死んでいこう」って、死をポジティブにとらえられる、生と死を学べる場はないんかなって、ずっと思っていた。だから、24歳の頃に会社を辞めて、介護ベンチャーを立ち上げました。そこで地域に開けた老人ホームをつくったり、障害を持つ子どももそうでない子どももお年寄りもみんなごちゃまぜになる学童保育を立ち上げるために走り回ったりしていました。
で、そうやって軌道に乗りかけた時期に、タイミングよく妊娠が発覚するんよねぇ、ドラマみたいなんやけど(笑)。その頃にできなかったことを、数年経ったいま取り戻して実現できそうなところまで来た、という感じです。
生と死の真ん中に立ち続けた
── きもさんにとって、福祉や介護というのは、とても大切なキーワードなように思います。
聡子 そうやね。
── 地域にひらかれた、子どももお年寄りもごちゃまぜになった介護施設をつくりたいというアイディアに至ったのは、どういう経緯があったのでしょうか。
聡子 そもそもは、私の父の死が始まりで。父は私が12歳の時に亡くなったんですけど、「治る気がないなら病院に来るな!」って言っちゃうような、ちょっと変わった医者でした。そして、過疎地域で暮らす、じん肺患者のために国相手に裁判を起こしたこともあるような、すごく正義感の強い、熱いひとでもありました。
そんな父が病気を患って、日に日に痩せて弱っていく姿を見て、当時の私は「どうして今までいろんなひとの命を救ってきた父さんが、こんな目に遭わなならんの」って納得いかなかった。同時に、衰えていく父を、「こわい」とか「気持ち悪い」って思ってしまった自分がいたんです。父の死に様を、直視できなかった。この時に感じた父への思いは、ずっとずっと、心の中で残っていて……今もまだ完全には消化できていない部分もあります。
聡子 父が亡くなってから、母は悲しみに暮れて、兄と姉は受験や自分のことで忙しくて、家族のなかに私の居場所がなくなってしまった。だから、中学に上がってからは家出ばっかりしていたし、学校に行っても授業に出ないで完全にグレて。
「どうして父さんを気持ち悪いなんて思ってしまったんだろう」って思っても、父にはもう謝れないし、だからと言ってこの気持ちをどうすればいいか、誰に相談していいかも分からない。でも自分の存在に気づいてほしくて、金髪にしたり警察に連れて行かれたり、やんちゃばっかりしていました。
そんなんだったから、高校も定時制しか受からなくて。クラスメイトは年齢もバラバラで、私はバイトばっかりして授業中は寝ていました。でも、小指をなくしたおっちゃんが隣の席で一生懸命カリカリ勉強している姿を見たら、さすがの私も刺激を受けるわけです。
そして17歳のとき、ある女性に出会いました。ヨシエさんっていう、英語ペラペラのアフロの女のひとやった。彼女に会った瞬間、なんてカッコいいんだろうって、衝撃でしたね。当時、彼とアメリカで一緒に住みつつ自分のやりたい事のために弁護士を目指して頑張っていて、その時はじめて自立している女性を生で見た気がします。居場所がなくて、でも何かをしたくって悶々としていた私にとっては、頭を殴られたような出会いでした。
そこから「私も英語をしゃべれるようになりたい!」と思って勉強を始めたら、スルスル入ってくるわけです。勉強する、学び直すってなんてすばらしいんだ、と。
── 学び直しの入口が英語だったのは、ヨシエさんの影響なんでしょうか。
聡子 きっかけは、なんでも良かったんだと思います。もしヨシエさんがイタリア語をしゃべっていたら、イタリア語を勉強しただろうし。
聡子 学ぶうちに、大学に行きたいと思うようになりました。夜間定時制の高校でそんなことを言い出す生徒ははじめてだったから、先生も大慌てやった。結局、無事大学にも入学できて、ニュージーランドに留学も行きました。
── 大学に行きたいって言ったとき、お母さんはどんな反応でしたか。
聡子 そりゃあもう、「どんどんやれ」ですよ。すごく応援してくれました。
じつは、私がグレた中2から高2までは、母と目を合わせてしゃべれなかったんです。一切口をきかない空白の4年間を過ごしちゃって。でも私が突然「英語やりたい」って言ったら、すごくビックリしつつ喜んで、留学も勧めてくれた。その頃から、徐々に母と話せるようになっていきました。それからはもう……空白の4年間を取り戻すかのように、毎晩一緒にお風呂に入っていろんなことについて話しまくりました。母、親友かそれ以上の存在でした。
── 学び直すことで、親子の関係も取り戻せた、と。
聡子 ただ、私が息子を妊娠した頃に、母に末期のガンがあるのが見つかったんです。先ほど話した、介護ベンチャーでバリバリやっていた頃ですね。当時は母が死ぬなんて信じたくなかったけど、自分が母親になると同時に母を失うんだと思うと、父の時に考えていた「ひとの生死とは何か」というところに、もう一度引き戻されたんです。そして、営業成績とか稼ぎとかキャリアとか、ちょっと一旦手放さなくちゃと思った。
── その決断は、苦しくはなかったですか。
聡子 そうだね、夫は仕事に夢中で楽しそうだし、当時私は26歳でまだ働きたかったし、イライラしたり孤独でつぶれそうになったり、人生で一番苦しい時期でした。
でも、母の死と向き合う、母を看取るということは、私にとってはちょっと次元が違う話だったんですね。息子が9ヶ月のころから約2ヶ月は息子の世話をしながら24時間母のケアをしました。兄と姉と分担しながらだったけど、座ってご飯を食べた日はなかったくらい、忙しい日々でした。
── 子どもたちとお年寄りが集まる場というのは、きもさんのお母さんの介護の日々から、イメージがつくられているのかなと、お話をうかがいながら思いました。
聡子 あぁ、そうかも。
……父の時もそうでしたね。老いていく父と、まだ子どもだった私と。母の時は、生まれたてでエネルギーがありあまっている息子と死にゆく母がいた。
いま、死ってとても遠いでしょう。都内では人身事故で電車が遅れるのなんて、しょっちゅう。そうすると、誰かが死んでしまったかもしれないのに、電車の遅延でイライラする。それくらい、死が遠いんです。
でも、本来死は、ものすごく重いもののはず。父がやせ細っていくのを見ながら「もっといろんなひとが、父の老い樣というか、死に様を見ていてくれたらな」って、12歳ながらに思っていたのかもしれません。そうすれば、父の死がショックではあっても、もっといろんなひとの記憶にズシンと刻まれたかもしれないと思ったんです。
「これは父や母が生きたかった時間をつかってやるべきことだろうか?」
── お父さんとお母さんの死への向き合い方が、きもさんの介護や福祉の根底を支えているんですね。イメージをカタチにするために豊島区で活動をはじめたのは、最近なのでしょうか。
聡子 母を看取ってからの丸3年は、だいぶ沈んでいました。
母の介護を経て、久しぶりに社会に戻って来たら元同期が出世していたり、同世代の子らが起業していたり……「あれ?」と。なんだこの置いてけぼり感は、と思いました。母の介護を機に完全に経済活動を手放したつもりでも、自己実現したい、誰かに認められたいという欲求は、まだ残っていた。それに、子育ても仕事もやりきりたい思いとか、ヨシエさんや自立している留学先で出会った女性たちのことを、思い出したんです。
もちろん息子もめちゃくちゃかわいいから、可能な時間で誰かのためにできる仕事を、心のリハビリとして始めようと決めました。
「父や母が生きたかった時間をつかって、私がやりたいことってなんだ?」という自問自答を繰り返しながら、2014年に「KURASOU.」という団体を立ち上げます。それが、母の一周忌を迎えた頃。
聡子 「KURASOU.」では親同士が「本質的に大事なマジメなことを明るく楽しく話せる場所」をつくっていて。政治や食など暮らしに関わるテーマのワークショップを行ううち、「親になってよかった」とか、「子どもが産まれて諦めたことがあったけど、もう一度子育てを両立しながら仕事もがんばろうかな」っていう声が増えてきた。今までのべ180人くらいの方に参加してもらっています。
「KURASOU.」を立ち上げたのは、私自身が両親を亡くして親になってから、子どもを持つひとに、ぼんやり生きていってほしくないって、強く思っていたから。でも、私は親の学び直しを一生やりたいわけじゃない。また悶々と、何をすべきなんかなって考えていたとき、たまたまデンマークのフォルケホイスコーレに短期留学できるプログラムを知るんです。
── フォルケホイスコーレ。
聡子 北欧にある成人教育機関で、カルチャースクールの拡大版みたいなものです。18歳以上なら誰でも学び直しができる。卒業証書とか資格は得られないけど、学びたいトピックを選んで、いろんな国から集まったひとたちと寝食を共にしながら勉強するんです。私こういうの大好きだから(笑)、見つけてすぐ申し込んで、夫と4歳の息子、そして生まれたてのまだ首もすわっていないような娘をかかえて、デンマークに飛びました。
── そこまできもさんを突き動かしたのは、本質的にやりたいことがフォルケホイスコーレで見つかるかも、と思ったからなんでしょうか。
聡子 それもあるし、よく一緒にお風呂に入っては語りあっていた20代のときに、母に北欧の教育のこととかデンマークが発祥の「森のようちえん」という取り組みのことを聞いて「絶対行ったほうがいい」って言われたのを覚えていたんです。だから、デンマークに着いた時、母との約束がようやく果たせたと思って。そうすると、なんだか母への思いというか、無念みたいなものがスーっと落ち着いていったんです。
── 本当の意味でお母さんの死を受け入れられた、ということでしょうか。
聡子 今でも涙は出ちゃうけど、でも母への冥土の土産ができたわと思ったら、もう一度介護をやりたい、ひとの死に向き合いたいという思いが戻ってきたんです。
── いま、まさにトライしていることを見つけたんですね。
聡子 そう。でも、本質的にやりたいことって、じつは24歳で介護ベンチャーを立ち上げたときと、変わっていないんですよ。それに、介護施設をつくりたいというよりも死に向き合う場をつくりたいというほうが、正しい表現かな。私、介護士でもないし、おじいちゃんやおばあちゃんがめっちゃ好きなひとってわけでもないし。
ハッキリやりたいことが見えて起業することを決め、帰国後に「ReDo」を立ち上げた、という経緯です。だから、父と母の死もいまの仕事も、ぜんぶ地続きなんですよね。
母親である前に、私たちはひとりの人間
── 息子さんや娘さんが産まれたことは、きもさんの人生にどう影響していますか。
聡子 いいものを子どもに食べさせたいとか、そういうモノを選ぶ視点だとかは一人暮らしの時に比べれば180度変わりました。でも、根本は変わらないです。
母親になると、「お母さんなのにすごいね」とか、母親を神格化する風潮があるかなと感じます。逆に、母親がタバコ吸っていたら「えっ、お母さんなのにタバコ吸うの?」って批判の対象になったり。
そういうステレオタイプみたいなものに、母たちは合わせようとするし、あるべき母像を演じようとする。母である前に、みんな一個人のはずなのに、周りから見られると一個人であっちゃいけないような雰囲気はあるなと感じます。
── 息子さんの新(あらた)くんは、きもさんのことを、お母さんとかママって呼ばないですよね。
聡子 うん、新はサトって呼ぶね。聡子だから、サト。夫はすなおって名前だから、すーちゃんって呼んでいる。
── それも、やっぱり母親であるまえにひとりの人間だっていう意識から、なのでしょうか。
聡子 それには、けっこうこだわりがあって。役割の名前で呼ばれることに、違和感があるんですよ。役割分担されると、こうあるべきっていう姿が強すぎて苦しくなる。でも、母親だって人間でしょう。母とか父っていう役割の前に、「あんたは誰なの、どうしたいの」ってことを考えなきゃ。でも、そこをあんまり見ずになんとなく暮らしているひとは、多いんじゃないかなと思いますね。
── 役割が決まれば、それ以上考えなくていいことや問題なく進むことは、たしかにたくさんありそうです。
聡子 自分が何をしたいのか、考え直したり思い返したりする作業は、必要に迫られないとなかなかできない。でも、誰しもがひとりの人間として欲していることって、なにかあるはず。それに気づけないのは、ちょっと強い言い方だけど考えていないだけだと思います。
私には両親の死っていう、考えたり立ち止まったりする分かりやすいライフイベントがあったけど、それは関係ないと思っていて。だってね、新と娘の要(かなめ)を見ていると、日々いろんなことを経験して吸収している。子どもたちがいま肌でいろんなことを経験しているのと同じように、私たち大人も、数え切れない衝撃とか葛藤を経てきているはずなんです。でも、そういうものに対してフタをしてしまうというか……言葉にならない不安とか悲しさとか違和感を隠そうとしているひとが、あまりに多いんじゃないかなって。
── うまく言えませんが、いい子ちゃんぶってる、みたいなことでしょうか……。
聡子 うん(笑)。なるべくカドが立たないように、なんでも許容しますっていう姿勢のひとが多すぎる。もちろんそれは素晴らしいけれど、でも不満とか思っていること、なんかあるはずやろって、私は思う。だから私、ふだんめっちゃ態度悪いですよ(笑)。
── あはは(笑)。
聡子 別に母親だからって、やわらかくってほんわかしたキャラクターじゃなくちゃいけないわけじゃない。イヤなことはイヤと言うべきだし、好きなことには全力で向かっていけばいい。みんなにとっていいひとでありたいっていう意識は、必要ないと思います。
── そこまで割り切れたのは、なにかきっかけがあったのでしょうか。
聡子 親になってから、というよりは、英語を勉強し始めたことで日本以外の世界も見えるようになったのが大きいですね。デンマークにいた時も、対話を徹底的に大切にする雰囲気をすごく感じました。講義中も、誰が先生なのか分からないくらい、みんな自分の意見を主張したり、ディスカッションしたりして。
私は日本ほど、自分を持って生き抜かなきゃいけない国ってないんじゃないかと思っていて。「これがいい」と言えないひとたちの、不安や迷いがすごく渦を巻いている感じがします。
── もし、あるべき論にとらわれて自分の本心が見えない場合は、どうすれば改善されるのでしょうか。
聡子 すごい当たり前やけど、やっぱり一個人が今の選択がベストって決めることかな……少なくとも、親が「これでいい」って思ったことでない限り、子どもたちにも伝えられないですから。
私も、過去の経験があるからがんばれることはたくさんあるけど、昔の方が良かったとか、あのひとがうらやましいとかそういうことに振り回されることはなくなりました。
志を遂げ、約束を果たすために
── 私、お会いしたことはないですが、お話をうかがうに、きもさんのそのエネルギーはお父さんの熱量をすごく引き継いでいる気がします。
聡子 あはは、そうやね(笑)。私の母も、家族で父さんの血を一番引いているのはあんたやって言っていたなぁ。
── その使命感っていうのは、どこから来るんですか。
聡子 自分が父と母の死を見届けたように、いつかは私も子どもたちに看取られる日が来る。その日までに、どこまでまっとうできるのか、自分への挑戦みたいなところがありますね。だから、子どもとか社会のためというより、自分のためですよ。自分のための使命だと考えています。
── ちょっと抽象的な質問なのですが……きもさんは子どもたちが産まれて、自由になったと思いますか。
聡子 物理的な自由は、独身時代に比べれば、ゼロ以下。でも心の満たされ方は、今が最高だと思います。子どもをふたりも授かって、愛する夫がいて。充足以外の何物でもないです。今の家族の姿は、私が父を亡くしたときからずっとほしかった形なんだなって思います。やっぱり、ずっとさみしかったですから。
── 動けないことに対して、悔しさはありますか。
聡子 腹立ったり、しんどい思いをしたりすることもあります。たかが30年しか生きていないけど、私はずっと不足感のかたまりで、ほんま根暗(笑)。家にいるときも、よう電気消して薄暗ーいところで、明日もし死んだらもう家族に会われへんねやって考えることもある。
でも、思うようにいかなくても前みたいにヤキモキしないです。周囲への執着とか焦りは手放そうって決めたら、だんだんとそんなふうに感じられるようになって。もちろんそこまでいくには、時間がかかるんですけどね……。
── 自分のやるべき道が見えて、覚悟が決まったような感覚ですね。
聡子 ちょうど母の3回忌を終えて、デンマークから帰国してから、やっとストンって憑き物が落ちた感じかなぁ。私は自分の意思を遂げるために生きたい。それに、その姿を父さんと母さんへの冥土の土産にしたいと思っています。
(一部写真提供:藤岡聡子)
お話をうかがったひと
藤岡 聡子(ふじおか さとこ)
1985年生まれ、徳島県生まれ三重県育ち。夜間定時制高校出身。自身の経験から、「人の育ち」「学び直し」「生きて老いる本質」をキーワードに、人材教育会社を経て24才で介護ベンチャー創業メンバーとして住宅型有料老人ホームを立ち上げる。2014年より非営利団体「親の思考が出会う場」KURASOU.代表として、国内外のべ180名以上の親が政治や人権について学び対話する場を運営。2015年デンマークに留学し、幼児教育・高齢者住宅の視察、民主主義形成について国会議員らと意見交換を重ね帰国。同年11月 福祉の再構築をミッションに、株式会社ReDoを起業。2児の母。Twitter:@wackosato
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